欲望のどん詰まりとしてのFIRE

欲望がないと人間は生きていけないように思う。欲望、希望、期待がないと、精神的にキツい。

とすると、リタイア、FIREを達成した後の人生と言うのは、うまく準備していないと精神的にキツそう。理由は、欲求を生み出すのが難しいから。

そもそも、最近のFIREムーブメント自体が、「何かのモノが欲しい」というプラス方向の欲望が、もうなかなかフツーの人は持てないというところから来てるように思う。モノもカネも満ち足りてるし、というかサイゼリアもネットフリックスもあるし、カーシェアもあるし、まあ十分欲しいものはあるわ、みたいな。

プラスの欲望がもう浮かばない、安価に色々手に入る状況なので、「〇〇しなくて済むようになりたい」みたいな、マイナス回避型の欲望くらいしかないのだと思う。

となると、実際にFIREしてそのマイナスの欲望が満たされた先に何の欲望が残るか、というと、割とどん詰まりに思う。もうなくない?という。

引退後の老人は近い状況だと思う。で、そんな人たちが、自分一人では欲望が湧かない時に、それを満たすのが社会的つながりだったり、家族だったり、宗教だったり、仕事なのかしら、とか思う。

家族、仕事、宗教、つながり、みたいなものは、「近くにいる人の欲求を、擬似的に自分の欲求にする」みたいなところがある。たとえば、「娘がより良い生活をできるように…」「お隣の八兵衛さんが困っているから…」「社長が〇〇を作りたいから…」みたいな。他人主体の欲望を自分ごとにして、それを満たしている気がする。

仕事、家庭、宗教、共同体、みたいな古くからあるシステムは、人に簡単に、欲望を与えるシステムだと考えることもできる。

でも、まさにこういうシステムから距離を取るのが、最近の風潮だったり、FIREムーブメントの(一部の?)価値観だったりする。だから、もし仕事も家庭も共同体も宗教もない状態で、リタイアした場合、人は欲望をどこから得るか?というのは割と難しい問題なのではと思ったり。

上記のシステムに頼れなかったら、自分の中から湧き起こすしかない。知識欲だったり、ものづくりだったり、スポーツだったり、個人的なプロジェクトだったり。ここも意外と簡単ではなくて、うまく楽しむだけの能力が必要に思うし、教養や経験が必要な気がする。

端的に言うと、「仕事は辞め、家庭もなく、社会的共同体にも属さず、宗教も信じず、特に一人で楽しめる取組みもない」みたいな人間は、精神的にかなりキツそうに思う。数は多くないかもしれないけれど、FIRE自体が人生の目的、みたいにして、無駄を切って切って、結婚・家庭・子育てを切り捨てて、合理的なので無神論者で、、みたいにいくと、あとは自力で欲望を見つけるしか無い。欲望ポートフォリオとしてはやや集中投資な感じがする。

なので、そこを回避するように何か持続可能な、欲望を発生する仕組みを、分散されたポートフォリオで構築しておいた方がいいんだろうな、みたいなことを思った。

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