「おもしろい話、していい?」

僕はフードコートで一人、ステーキを食べていた。

隣の席にカップルが座っていた。その女が言った。

「おもしろい話、していい?」

その場に緊張が走った。主に僕に。その場と言うか僕に、緊張が走った。ここは大阪である。大阪で、他人からフられるわけでもなく、自ら「おもしろい話をこれからする」と、この女は宣言した。

これは自殺行為である。

「おもしろい話して」というフリを受けて、おもしろい話をできるヤツを、僕は人生でほとんど見たことがない。「おもしろい話をする」と宣言してから、おもしろい話をできる人を、人は何と呼ぶか。プロと呼ぶのである。

無駄にハードルを上げるのは危険だ。取らなくていいリスクを、隣の女は自ら進んで取っていた。とんでもないリスクテイカーだった。

僕は女の声に耳をそばだてた。どんなおもしろい話をしてくれるんだろう。固唾をのんで待っていた。彼女は言った。

「このクーポン使い忘れちゃった」

これだけである。聞いていた男も、えへへ、ぐらいの軽い笑いだった。

悔しい。僕が範馬勇次郎だったら再起不能にしてやるのに。法治国家ジャパンが憎い。自分の武力の足りなさが憎い。僕は怒りを押し殺し、ハラミステーキを食べた。

この記事がおもしろくならなかったのは、僕のせいではない。この女のせいである。おもしろい話は難しいのである。

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