恥ずかしながら感謝してしまうんだ

やたらと感謝を告げるラッパーをバカにしていたのは大学生の頃だ。

まあ、僕が独自にバカにしていたというよりは、そういうネットの風潮があったように思う。親に感謝、友に感謝、なんたらに感謝、と薄っぺらいリズムに合わせて連呼する、薄っぺらいが一見強面のラッパーというアンビバレントな存在をバカにする雰囲気があった。ラッパーだけでなく、「おかあさんありがとう」のような謎のマザコン丸出しの立て札を店先に掲げたラーメン屋も、一緒にバカにされていたような気がする。

あれから10年経った。結局僕は、あのラッパーやラーメン屋と同じだった。齢30を越えて、恥ずかしながら、僕は何もかもに感謝してしまうのだ。

年を取ればとるほど、どうしても突きつけられてしまう。誰かの支えでここまで来たことを。運や縁によってここまで来たことを。

ちょっと脱線すると、世の中の成功者は、自分の努力を過大評価し、運や縁の要素を過小評価しすぎだと思う。勉強していい大学にいったり、ビジネスで成功したことを、自分の努力のおかげだと思っている。そんな奴らも、生まれた時代が戦国時代だったら、関ヶ原の戦いで野垂れ死んでいた百姓の一人だったはずなのだ。奴らは、偶然この知性が評価される今この時代に産まれて、偶然知性を備えて生まれてきて、偶然教育を受けさせてもらえる家に産まれて、もしくは頑張れる気質を備えて生まれて・・・みたいな運でやってきたのに、恥ずかしがるそぶりもなく、自分の努力(というような自由意志すらあまり信じていないが)でここまで来たとのたまっている。そんな奴らは全員原始時代に飛ばされて、飢えて腹が減って、群れのボスが蓄えていた木の実を盗もうとしているところを見つかって、力ずくで、思いっきり石器で殴り殺されればいいのだ。

つまり言いたいことは、結局僕らが今ここでそれなりに元気にやっているのは、運や縁の要素によるものなのだ。若いころは僕も、親に反発したりもしたけれど、悔しいかな結局親がいないと僕もいなかったのだ。今の自分を強く肯定すればするほど、生んでくれた両親や、これまで出会った人に感謝せざるを得なくなる。

結局、ラッパーもラーメン屋の店主も僕も、結局同じで、年を取ると自分一人だけで生きてきたわけでない、という事実に気付かされてしまう、ということなんだろう。

僕は韻も踏めないしラーメンも作れないので、このブログに書きなぐるしかない。「みなさん僕と関わってくれてありがとう」と。

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