(この記事は、初代バチェロレッテ福田萌子さんを読者として想定し書かれたものです。
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「萌子さ~~ん!」
バチェロレッテを見て以来、リビングで絶叫するのが癖になってしまった。暇があれば僕は、「萌子さん!」「萌子さぁん!」と叫んでいる。僕の妻はもう慣れたもので、ノーリアクションだ。スマホでYahooニュースを見続けている。
「バチェロレッテ」とは、Amazon Prime Videoの番組で、1人の理想的な女性、福田萌子さんを17人の男性が奪い合うという、恋愛リアリティショーだ。このシリーズが僕は大好きで、バチェラー1,2,3から全部見ている。
この番組の中で、萌子さんは「真実の愛」を探している、と繰り返し言っている。番組の最後になっても、「真実の愛」とは何か?の答えはでないまま終わったように感じた。影響されやすい僕は、「真実の愛」とは何か?考え込んでしまった。「萌子さぁん!君が探していた『愛』って何で、どこにあるんだい!」と。
愛とは何だろう。
僕は結婚している。いうなれば愛を探す人、バチェロレッテ萌子さんの先輩にあたる存在であり、「愛」という感情を良く感じている。僕が、娘や妻に感じる感情を、人は愛と呼ぶのだとすると、この感情を言語化すればいいと言うことになる。
では、少し考えてみたい。
僕が「愛」と呼ばれるものを、一番強く感じるのは娘に対してだ。娘が可愛い。超かわいい。口元なんて僕にそっくりで超キュートだ(つまり僕の口元もキュートだ)。いとおしい。食べちゃいたい。
この気持ちは、娘が産まれた最初からある程度あったが、一緒に暮らしていく中で、僕のなかでどんどんと大きいものに育っていった。最初からいとおしいが、徐々に肥大化していき、こころがあったかくなるのだ。
この子のためなら何だってする!という気持ちになる。
これが愛なのだろうか。つまり、純粋に相手を思いやる気持ち、そのためには自己犠牲をいとわないという気持ちのことなのだろうか。
大なり小なり、そういう気持ちは色々な人に向けることができる。友人が助けを求めていたら、自分が多少損をしても助けるだろうし、電車で妊婦さんが居たら、自分が少し疲れるとしても僕は席を譲るだろう。これも愛なのか。
これは「弱い愛」とでも呼べるのかもしれない。そして、この思いが強いものを、人は愛と呼ぶ気がする。強さは違えども、この気持ちは、愛なのではないか。大なり小なり、世界は愛で満ち溢れているのではないか。
萌子さん、あなたが探していた「愛」というのは、すぐそこにあるんじゃないか?大なり小なり、他人に対して、自然と抱くいとおしいと思う気持ち、思いやりの気持ち。小さいとそれが愛だと気付かないかもしれない。でも、これが徐々に大きく、育っていった時、それが愛だと人は認識するんじゃないか。
愛はすぐそこにある。愛は大きいものだと思っているから、見えないだけだ。小さくて気づかないかもしれないが、愛はそこにある。大きく、愛だと見えるようにするには、注意深く見つめて、眺めて、大きく育む必要がある。
いきなり、大きな愛が現れるのを期待しているから、愛とは何か分からなくなるのではないか。萌子さん。