自分とは遠い人との会話は刺激になる。
ここでいう「遠い人」とは、別の会社の人とか、違う職種の人とか、違う職業の人とか、立場が違う人とか、とにかく自分とは違う遠い人のことを指す。
自分とは遠い人との会話は、勉強になることが多い。それはなぜだろうか?
その理由は、「自分とは遠い人との会話は、抽象化を強いるからではないか?」というのが、今日の僕が言いたいことである。
自分と遠い人と会話をすると、とにかく彼の具体のレイヤーの話が分からない。たとえば、僕はソフトウェアエンジニアであるが、社外の人事の課長さんの話を聞いても、具体的な仕事の内容はよく分からない。人事の手続きの悩みとか、難しい評価制度の話とかが分からない。それは当然である。だって僕、人事じゃないし。
その中でもなんとか、相手が話すことを理解しよう、共感しよう、何か言おう、とすると、そこには抽象化が必須になってくる。
たとえば、人事課長が、会社の組織図をどのように組もうか、係をどう分けようか?などと悩んでいるとする。
そうした悩みは、僕のような平社員エンジニアとしては、直接には理解できない。しかし、たとえば組織設計を、ソフトウェア設計同じで、どういう切り口でデータ(≒知識)と処理(≒仕事)をまとめようか?という話だと理解すると、ある程度話をすることができる。密にやり取りがある人達を近い距離にまとめればいい。でも、ある切り口で切ってまとめるってことは、別の切り口でのつながりの活性化は諦める、って覚悟がいる。どこを密にして、どこを疎にするか?という見極めと覚悟の話ですよね。というように、ソフトウェアエンジニアでも人事課長と議論をすることができる。
これがもし、ソフトウェアエンジニアではなく、物書きだったら、組織設計の問題は、文章の構成の問題と近いものがあるのかもしれないし、小学校の先生だったら、クラス分けの際の留意点と近いものがあるのかもしれない。
とにかく、「ある本質からみると”一緒”」と考えるきっかけになるのである。
遠い人との会話を理解しようとすると、具体のレイヤーから飛び立って、抽象化して、自分の詳しい領域への具体化という往復が必要になってくる。こういった抽象化と具体化の往復を、遠い人との会話では強いられることになる。これが結構な刺激になるのではないか。
二つの事象から共通点を見出す場合、その二つの事象が遠ければ遠いほど、見出される共通点はより抽象的な本質になる。また、見出した時の「なんと、アレとコレが一緒だったとは!」という驚きもあり、心に残りやすい。面白いから。
ということで、以上が、自分とは遠い人との会話は、抽象化を強いてくるので、思考のきっかけとなり、勉強になるのではないか。と思った話でした。