娘の全てを保存したい。
写真で、動画で、文字で、全てを残したい、なんなら冷凍保存したいくらい、と思う気持ちは、理解できる親も多いと思う。生後1ヶ月の時の娘、生後2ヶ月の時の娘・・・みたいに保存して、しまいたい。
1年前の娘の写真などを見返すと、「ええっ!?こんなんだったっけ?!」と思うぐらいである。覚えているようで覚えていない。するとますます、「全てを保存してしまいたい」と言う思いは強くなる。「この瞬間を保存して、後で何度も味わえるようにしたい!」と思う。
ただ、最近気づいたことがある。保存して後で見返しても、当時ほどの感動はないのである。
保存しても保存しても、情報は欠落する。写真も動画も文字も一面を切り取ったデジタルデータである。空気、感情、五感などなど。当時にはあったものが抜け落ちていく。ならば、不完全な情報を保存するばかりでなく、完全なこの瞬間を、しっかり感じた方がいいのでは?とも思ったりする。確かに、全てを忘れるまいと思って娘と接していても、一瞬で忘れてしまう。
でも、忘れてもいいのではないか。なぜなら、忘れる、と言ったものの、何かは残っているからだ。残っているというか、心に「積もっていく」という感じがする。
日々を一緒に過ごす中で受け取る膨大な情報の中から、僕の記憶なり心なりに、少しだけ残るものがある。通り過ぎて通り過ぎて、流れていくのを通じて、沈殿するというか、心に少しずつ積もっていくものがある。生々しい情報としては思い出せないし、デジタルデータとして保存もしていない。でも、体験や感覚を通じて、ほんの少しだけ記憶なり、経験なり、感想なりが、脳に心に残っていく気がする。その積もったものが、今日の日の行動を変えて、それがまた新しい「積もったもの」を生み出す。このサイクルを繰り返してどんどんどんどん積もっていく。保存はされてないけれど、これも一つ、保存されたものだな、などと思ったのである。