情熱と熟達のジレンマ

なんでもいいが、ある分野について情熱を持って取り組む。すると、上達してくる。これは非常に楽しい。熱狂する。

そして、その中で得た気づきを、誰かに情熱を持って伝えたくなる。

「こうするといいよ」
「おれはこれに気づいたんだ」
「だから君もこうするといいよ」

こんな調子だ。
ただそれは、その道の一流の人間にとっては、まだまだ未熟な方法論、気づき、洞察である可能性が高い。情熱を持って、誰かに伝えたいと渇望するのはだいたい、初心者から脱皮した中級者の入口ぐらいのフェーズである。(ダニング・クルーガー効果はよく言われる)

じゃあ、熱狂的な発信欲は抑えて、一流レベルの、誰が見ても穴がないレベルまで成熟させるべきなのだろうか?少なくとも数年かけて技を磨き、知恵を絞って、技術や知識や能力が、成熟するのを待つべきなのだろうか。

その時にはもう、「誰かに絶対に伝えたい!」というほどの、情熱は失われてしまっていることが多いのではないか。情熱がある頃には熟達しておらず、熟達したころには情熱が失われている。そういうジレンマが、熟達と発信の間にはあるように思える。

このジレンマに対する個人的な意見としては、「発信する側は、未熟であることを気にせずに、どんどん発信をしたらいい。情熱は貴重なリソースだから」そして同時に、「受け手は、メタな情報(著者の経歴)から力量を推測しつつ、取捨選択して受け止めればいい」と思っている。

その道で数年、数十年やってきた人の意見・アドバイスが、中級者のそれとくらべて、必ず有用だとは限らない。熟達度が近い人間の方が、見えている世界が近くて参考になることもあるだろう。上達のプロセスの中での思考・気づきについては、気にせず、その情熱に任せて、どんどん発信すればいいのでは?

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