結婚してから妻が強くなる、という現象はよく見られる気がする(気がする)。 「妻の尻に敷かれる」という言葉も存在するくらいだ。 さて、結婚を境に、夫婦のパワーバランスが妻の方に強く傾くという現象がもしあるとしたら、それはなぜなのか?について考えてみたい。
考えた末の僕の結論は「妻のホームゲームだから」である。これを「ホームゲーム効果理論」と名付けたい。
本理論を日本中、いや、本場アメリカまで轟かせるために、以下で本理論に対して少しの説明を付け加える。しばしお付き合いいただきたい。
ここでの議論では、妻が専業主婦、時短勤務、パート、というケースを前提に考える。こうしたケースでは、家庭のこと、つまり家事育児を実施するのは、主に妻の側になる。純粋に、家事育児に注ぎ込む時間が妻の方が多くなる。すると必然的に、妻の方が家事育児に熟達し、かつ、主導権を握る。さすれば何が起こるか。妻から夫に対する叱責が増える。
「利用した食器はシンクに置いてと言ったよね」
「タオルのたたみ方はこうじゃないでしょ」
「保育園の連絡ボードの写真を撮ってって言ったよね」
等等である。これらの叱責が発生する根本原因は夫の無能さではない。単純に、妻の方が夫より、多くの時間を家庭の運営に費やしてきたからである。家庭におけるルール作りをしているのが、主導権を握っている妻側であることと、家事育児に対する練度の違いから、このような叱責は起きる。
スタンフォード監獄実験という心理学の実験がある。演技でも、看守のようにふるまっていると人は攻撃的になっていく、と言う話である。(スタンフォード監獄実験自体に、再現性がないのでは?等の細かい議論は、ここではおいておく)家庭における日々の細かい「叱責」も、似たような効果があるのではないか。何度も何度も、「正しい自分」と「間違った相手」、に見える関係で「叱責」をしていると、夫婦の間に暗黙の上下関係を作っていく。
(こういったケースを想定すると)家庭は妻にとっての「ホーム」なのである。ホーム(家庭)でホームゲーム。なんちゃって。妻にとっては、ホームが時間を注ぎ込んだ得意なフィールドである。妻(正確には、家庭に長いリソースを注ぎ込んだ側の人間)が、家庭においては何事においても「叱責」「指導」する場に立ちやすい構造的な問題がある。一方、相対的に、長時間外で働いている夫にとっては家庭はアウェー。エヴリデイアウェーゲームのシーズンが365日続くのだ。勝率は低い。
一方で、こういう反論も考えられる。専業主婦もしくは時短勤務の妻というケースの場合、夫側の方が収入が高いケースが多いと思われる。この収入の多い/少ないの関係は、夫婦における夫側の立場の向上に寄与するのではないか?
結論から言うと、夫の収入上の優位性は、家庭でのパワーバランスにおいては、たいした効果がないと推測する。なぜなら、収入に感謝する機会の頻度と深さが、家事育児の叱責のそれ比べて極端に少なく弱いからである。まず、収入が入ってくるイベントが月に1度しかない。また、ありがたみも、単なる数字であり実感がない。生活に苦労していない程度の資産・収入がある状態であれば、なおさらである。人間の脳は、数字のような抽象的な概念に対して、生々しい実感として感謝することができない。日雇い仕事で、明日食べるものに困るという状況であれば、仕事終わりの夫が持ってくるお札に対して、感謝の念が高頻度で深く湧き上がってくるであろうが、そうでない状況であれば、ホームゲーム効果に負けてしまう程度のインパクトしかないだろう。
まとめよう。 夫婦の役割の違いから、家庭で過ごす時間に差が生まれる。多く時間を費やす方が、そうでない方を、数多く叱責する機会に巡り合う。それが上下関係を生み出す。一方で収入の上下関係は、感謝の頻度と深さの観点から、さほどのインパクトを生まない。これを「ホームゲーム効果理論」と呼ぶ。
多くの夫婦は、注ぎ込んだ時間の差からくるこの構造的問題に無自覚である。そしてその無自覚性こそがこの効果を生み続ける原因でもある。無自覚であるから、正義と悪を自信を持って断罪できるのである。自覚した諸君はどうするか。本理論を武器とし、夫婦上下関係における下剋上を試みるのもよいだろう。しかし勝率は低い。おそらく「そういう理屈っぽいところが嫌い」とレッテルを貼られ、諸君は言論の自由を奪われるだろう。ちなみに、このレッテル貼りによる言論弾圧を「血液型占いに必死で反論するほど"そういうところがB型っぽい"とレッテルを貼られる理論」と呼ぶのであるが、本理論の説明はまたの機会としたい。では、世のお父様方、ここまでお読みいただき、深く感謝する。またどこかの保育園の送り迎えの場で会おう。さらばだ、レジスタンスたちよ!アディオスアミーゴ!