最近、若手の育成について考えている。どうすれば上手く育つのだろう? 一生懸命教えても、どうにも響いていない顔をしている。
そんなある日、ふと、山本五十六のことを思い出した。彼は人材育成についてこんな言葉を残していた。
「やってみせ
言って聞かせて、させてみせ
ほめてやらねば、人は動かじ」
うーん。僕は割と、こういう感じでやってきた。でもうまくいかない。五十六メソッドは、何か間違っているのだと思う。
きっとこの言葉は、指導対象の人が、「学びたい」と強く渇望している状況向けの方法論である。しかし、多くの場合で人材を育成しようとする際、そんなやる気等本人にはない。普通の人に五十六メソッドで教える場合、以下のようになってしまう。
- 僕「やってみせ」
- 後輩「(説明ダルい)」
- 後輩「(言われんでもできるし)」
- 後輩「(こんな基礎的なことやる意味ある?)」
- 僕「言って聞かせて」
- 後輩「(説教臭いわぁ)」
- 後輩「(できるからはよやらせてくれや)」
- 後輩「(企画の仕事やりたい)」
- 僕「させてみせ」
- 後輩「(はいはい、言われた通りやりましたよ)」
- 後輩「(言われなくてもできたッス)」
- 後輩「(オレやっぱり賢いなぁ)」
- 僕「ほめてやらねば」
- 後輩「(チョロすぎ…)」
- 後輩「(ま、オレ頭いいからなぁ…)」
- 後輩「(企画の仕事やりたい)」
- 僕「人は動かじ」
- 後輩「(ふぁ~一回やったけど二度とやらんわぁ)」
他人からの強制力による意思(例. 軍隊での上官の指揮)や、本人の自発的意思がない場合は、この後輩君のようになりがちである。一生懸命教えても、そもそも学ぼうとしない。
学ぼうという意思、渇望がなければ、学びは始まらない。育成の最初の大きなハードルは、「学ぼうという渇望」を起こさせるところにある。
上記の議論を踏まえると、こうした状況で正しいのは、以下の手順ではないかと思う。
「させてみて
詰めて、泣かせて、わからせて
やってみせねば、人は動かじ」
つまりこうである。
- 僕「させてみて」
- 後輩「(いきなり仕事や!)」
- 後輩「(やり方は教わってないけど、まあオレならできるでしょ!)」
- 後輩「(うーん、こんなかんじ?よくわかんないけど)」
- 後輩「(提出するやで!)」
- 僕「詰めて、泣かせて」
- 後輩「(ひぃ~)」
- 後輩「(パイセンからの指摘の量が半端やないんやけど…)」
- 後輩「(このレビュー、いつになったら終わるんやろ…)」
- 後輩「(全然できない…仕事が進まない)」
- 後輩「(ウェーン)」
- 僕「わからせて」
- 後輩「(自分できると思ってたけど、全然できひんわ…)」
- 後輩「(どうやったらええんやろ…)」
- 後輩「(全然やり方は教えてくれないし…)」
- 後輩「(成果が全く上がらへん…ヤバい…)」
- 後輩「(やり方教えてくれやぁ…)」
- 後輩「(誰か助けてくれ…僕は全然駄目な人間でした…)」
- 僕「やってみせねば」
- 後輩「(うぉっ、先輩やり方見せてくれたで!)」
- 後輩「(そうやったら良かったんか…!)」
- 後輩「(確かに、こういう地味な所の徹底が大事なんやな…!)」
- 後輩「(これをやり切れば、僕でもできるかもしれへん…!)」
- 後輩「(もっと学びたい…!)」
- 僕「人は動かじ」
- 後輩「(確かに、こういう地味な所の徹底が大事なんやな…!)」
- 後輩「(このスキルを何とか身に着けて、この難局を乗り越えよう…!)」
「やって見せる→やらせる→褒める」 ではなく、「やらせる→"わからせる"→やって見せる」の方が、はるかに、学ぼうとするのではないか、と思う。